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■--雑記帳
++ 六 (中学生)…44回          

外務省篇の終戦史録の年表を見ていると、昭和十九年十月二十日、チャーチル、スターリン、ハリマンのモスコー会談終わる(会談中スターリン、ハリマンに対して対日戦参加を約す)とあって、同年十一月七日、スターリン日本国を侵略国と看做すと演説。まさに、その日、「ソ連大使館の革命記念日に日本高官多数出席(スターリン演説後)」と記載がある。あとから見ると、さだめて馬鹿面をならべたことであろうと思うが、お人よしばかりだったのかもしれない。こういう演説をスターリンがしているのを見逃したのは、そうとうボンヤリしている。人のふり見てわがふりなおせである。歴史的事件にかかわる人は、よく、かんがえ、よく鍛錬していないと、いけない。市井人でもそういう場面にでくわすことが、絶対ないとはいえないから、修養は必要である。
.. 2007年12月03日 19:46   No.112001

++ タク (部長)…188回       
条約を破って日本に攻め込んだソ連の言い分
昭和20年(1945年)9月2日スターリンが、国民に送った戦勝メッセージより。「日露戦争」日本がわが国に対して侵略を始めたのは、遠く1904年(明治37年)日露戦争からである。周知の通り1904年2月、日本はロシアとの間にまだ折衝がつづけられていた時、日本はツアー政府の弱体につけこんで、不意に背信的に戦争の宣言なしにわが国に襲いかかった。そしてロシアは負けた。この敗北は、国民の心に重苦しい思い出を残した。わが国民はいつの日か、日本が撃破される日が来ることを信じて待っていた。そして今や遂に、その日がやって来た。

.. 2007年12月06日 22:11   No.112002
++ 六 (中学生)…45回       
萩原徹著「大戦の解剖」によれば、ソ連の対日参戦の政治的条件や名目に関する苦心にもかかわらず、ソ連がいよいよ日本に宣戦した時、そのニュースは一般のロシア民衆には大した反響はおこさなかった。又一週間後戦争の終わった時も民衆はほとんど無関心であったという。対独戦争では、ロシア人の誰にもドイツ人に殺されたり、ドイツに連れていかれたりした近親や友人があった。また又都市の破壊やドイツ人の残虐を眼でみていたので、ドイツに対するロシア人の敵愾心は強かった。日本については、戦争中ずっと中立維持の必要から新聞などにもほとんど何も書かせなかった。今更急に民衆に民衆に対日憎悪心を起こさせることは。さすがのソ連宣伝機関もできない相談であったらしい。というように書かれています。
.. 2007年12月17日 20:37   No.112003
++ タク (部長)…190回       
ソ連宣伝「ソ連邦対外政策史」軍国主義日本に対する勝利の結末、ソ連は固有のロシアの土地・・・南サハリンとクリル諸島(千島)をとり返した。これらの領土は、ソ連の対日戦参加の条件として、ヤルタ協定に準拠して、ソ連に返還されたものである。

「対日参戦」極東におけるソビエト軍の諸作戦は、第二次世界戦争全体の結末に大きな意義をもっていた。日本帝国主義者どもの突撃的目的集団の一つであった関東軍の撃滅は、日本の敗北と無条件降伏を早めさせた。後日西側諸国は日本撃滅の際のソ連の役割を小さく見せるため・・・例えば1951年アメリカ国務省が作成した対日平和条約草案に「ソ連が対日戦に参加したのは、僅に六日間」と、明瞭に書かれていた。

しかしソビエト陸軍は六日間ではなく一ヶ月にわたって日本軍と血みどろな戦闘を行った。なぜなら関東軍は、天皇の降伏宣言にも拘わらず、なお長く抵抗を続けていたからである。ソビエト陸軍は、満州で22ヶ師団を撃破し、将兵六十万人を捕虜とした。日本は関東軍の決定的打撃を見て、はじめて降伏を決意したのである。

.. 2007年12月20日 20:54   No.112004
++ 六 (中学生)…46回       
なるほどー、ソ連宣伝機関はそういうように言うのかと思いますが、ある面で語るにおちることを言っている。樺太千島列島に侵攻したのは、客観的に考えると、実効支配するためで、そのために流さなくてもいい血を流した。日本は降伏したのだから、満洲も急いで攻めることはなかった。一ヶ月も待っていれば、ほとんど血を流さず、悲惨な目にあう人もはるかにはるかに少なく事は運んだ筈である。ソ連の口実とは無関係に、戦争によって血を流して利益を得ようとしたから、悲劇がおこった。捕虜もそうで、給料も払わず超こきつかうのだから、国際法違反である。それでいいたい放題。無茶苦茶言いよると若干笑えるところがあるが、しかし、あまり断言的に言われると事実を知らない人は、そうかなと思ってしまうかもしれない。
.. 2007年12月21日 21:43   No.112005
++ タク (部長)…191回       
さらに、8月8日、ソビエトは日本に対し戦宣し、8月9日未明、約4,000kmにわたる戦線から攻勢に入り、20日までは関東軍主力を撃破し、9月9日には満州における個々の集団の抵抗は、事実上終わった。8月9日、ソビエト軍の攻撃に呼応して、モンゴル人民共和国も参戦、中国解放軍も攻勢に転じ、僅か11日間、8月9日より19日までに関東軍は撃破され、満州、旅順、遠い昔からロシアに属していた南サハリンとクリル諸島から、日本人を駆逐し、北朝鮮を開放した。

極東におけるソビエト軍の軍事行動の目的は、北東中国の日本軍の撃破と、遼東半島に進出することにあった。南サハリンに対する攻撃は、8月11日の朝よりから始められ、8月25日には、同地区全部の日本軍の帰討を終わり、一方クリル諸島は、8月7日午前4時、上陸部隊の舟挺多数が、カムチャツカのペトロパヴロスクを出て、濃霧の中を多数の軍艦に掩護され、東海岸に沿って、クリル諸島最北端のシュムシュ島を攻撃し、9月1日までに解放を完了し、両地合わせて63、840名の将兵を捕虜とした。

.. 2007年12月22日 10:23   No.112006


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