つまり、原爆が使えるようにするために、原子力の悪いイメージを消し去る必要があるという理屈です。そこからアイゼンハワーの「アトムズ・フォー・ピース」もでてくるわけです。 もう一度カズニックによれば、国防総省の心理戦略委員会のコンサルタントだったステファン・ボッソーニという人は「原子力が建設的目的に使われていれば、原子爆弾ももっと容易に人々は受け入れるであろう」と委員会に助言したそうです。 これは一般的に原爆を受け入れさせるための「平和利用」の心理戦略だったわけですが、日本の場合は、広島・長崎があり、ビキニ事件があり、戦後もっと大規模な草の根からの反原水爆運動の立ち上がりがあったわけですから、特別の対策が必要と米国は考えた。 ◯ 日本はサンフランシスコ講和で、1952年に独立します。米国にとって、独立後の日本がどこにいくのかは大きい心配の種でした。というのは、日本は当時の西ドイツのような強烈な反共国家にはなっていなかったからです。 もちろん当時の日本は、アカといわれると村八分になる社会的雰囲気はあったし、政治権力は反共でしたけれど、共産主義と闘うために命をかけるという気分からは程遠かった。反共国家というのは、当時の西ドイツがそうでしたが、「アカになるより死ぬがまし(Besser tod als rot)」という式の雰囲気だった。共産党は禁止されていました。ドイツは東西に分割され、東の中の孤島となったベルリン封鎖をめぐる米ソの一触即発の状況が続いていました。