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■--終戦
++ ACT (幼稚園生)…1回          

終戦の年の2月、私の父は軍に徴兵されました。

そして翌月、旧満州(中国東北部)の虎林(こりん)市の虎頭鎮に築かれていた虎頭(ことう)要塞というところに赴任しました。

虎頭要塞は、対ソ戦略のためにシベリア鉄道が見渡せる高地に築かれていました。

私の父が配属された部隊の任務は、その要塞にあった軍馬や弾薬そして分解した大砲などを、本土決戦のため内地(日本国内)に移動させることでした。

(同じ部隊の歩兵の戦友で、満州に残る事になり、後にシベリアに抑留され命を落とされた方もおられたようです・・・。)

部隊は、列車で満州、朝鮮を南下し、釜山(ぷさん)から船で京都の舞鶴に着きました。

(父の乗った船は幸い無事でしたが、先に出た船は敵の潜水艦の魚雷にやられたそうです・・・。)

そして、高知の海岸付近に塹壕(ざんごう)を掘って、敵の上陸を待ち構えているうちに8月15日の終戦となりました。

(敵の爆撃機は、父たちなど無視するかのように頭上を通り過ぎ、しばらくするとラジオから空襲警報が放送され、遠くの町に炎が上がっていたそうです・・・。))

父は、乾パン、米一升(1.4kg)、金20円をもらって除隊し、8月22日に実家に無事帰還しました。

(徒歩で実家に帰る人の中には、軍馬をもらって、実家の農耕に使った人もいたようです・・・。)

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しかし、実家に帰った父は、満州の虎頭(ことう)要塞の守備隊が、その10倍以上のソ連軍を相手に、第二次大戦最後の激戦を続けていたことなどその時は知る由もありませんでした。

終戦の3月、虎頭要塞の守備隊は解散になり、保守管理のための小人数を残すのみでした。

ところが、7月に約1400名の守備隊が再配置されました。

その理由は、要塞の秘密兵器ともいうべき41cm榴弾砲が、あまりの巨砲のため分解して移動できず、要塞に残っていたからです。

この巨砲は、アムール川の支流ウスリー江に合流するイマン川に架かる鉄橋を射程圏内に収め、シベリア鉄道=スターリン街道遮断を目的に極秘に設置されていました。

父も一般の兵隊も、そのような秘密兵器がこの要塞にあることなど当時誰も知りませんでした。

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『しかもそれは、大量の異民族の血のいけにえのもとに建設されたのであった。
ソ連の参戦によってそこには凄絶な死闘がくりひろげられたが、十倍以上の大兵力をもつソ連軍の猛攻の前に
さしも要害を誇った大要塞も抹殺され、守備隊は全滅した。
驚くべきことに、その全滅は、「終戦」後の8月26日であった。
太平洋戦争は真珠湾に幕をあけたが、その最後の幕が降ろされたのは、実に、知られざるこの虎頭要塞だったのである。』
岡崎哲夫著 「秘録 北満永久要塞―関東軍の最後―」より
.. 2007年08月17日 21:13   No.101001

++ タク (課長)…161回       
石原莞爾は満州国を守るべくソ連の国力を調べるため、ウラジオストックからモスクワ入りしました。途中、シベリアを注意深く観察しながらモスクワ入りしました。モスクワでは、エゴロフ参謀総長が、一介の大佐にすぎない石原莞爾を招待しました。石原莞爾としては、敵の事情を探る意味から、この招待に応じ国賓なみの待遇を受けていました。エゴロフは当時の外務大臣は松岡洋右で石原莞爾は外務省事務官の肩書きにすぎないのにソ連の参謀総長が「日ソ不可侵条約」を申し出たのです。

石原莞爾は「私個人としては、日本とソ連とは争うべきものでないから大賛成である。しかし私には文句がある。君らは日本に対して共産主義の宣伝をするが、日本の国体を理解しているのか。宣伝をはじめる前に相手のことを十分に研究せねばならない。日本国体は世界に類のないもので、日本国民は天皇を戴くことに無上の喜びを感じ、日本国民の幸福は凡てここに立脚しているし、将来は世界の人々にもこの幸福をわかつべきものと信じている。この日本の国体を理解しないで、他国に対すると同じように軽々しく宣伝することは罪悪である。日本に共産主義の宣伝をする前に、まず日本を徹底的に勉強する義務がある。ソ連の優秀な青年をなるべく日本に送れ。私は微力ながら日本的に訓練して十分に日本を理解させてあげよう」

結局、日ソ不可侵条約締結されましたが、ソ連がドイツに攻められているとき日本は背後をつかずに条約を守った。このときドイツと日本がソ連を挟み撃ちにしていればソ連は崩壊していたでしょう。だが、その恩も忘れソ連は条約を破り虫の息の日本に襲い掛かり満州国は崩壊してしまい日本国の領土も占領してシベリア抑留で大勢の日本人が死にました。歴史的に見ても、日本固有の領土として、北方領土は、樺太千島交換条約により、樺太全島における日本の権利と引き替えに、ウルップ島からシュムシュ島までの諸島が、ロシアから日本に譲与されたのに、この状態なのですね。

.. 2007年08月18日 07:23   No.101002
++ 伝 (高校生)…59回       
終戦の時、樺太の真岡では、二十日朝ソ連軍が艦砲射撃をくりかえした後、上陸を開始。第一大隊は早速軍使13名を派遣して停戦交渉にのぞむが、ソ連軍は将校以下十名の軍使を射殺し、避難する住民に対しても攻撃を加え、戦闘が開始されたという記録があります。札幌の第五方面軍参謀長は、二十三日電報を河辺参謀次長あてに打っています。「北部樺太方面の防衛平静なるも真岡方面の敵は頗る惨虐にして、住民を惨殺し避難民を機関短銃を以て猛射し、・・・同方面第一線部隊は若干の対抗手段を執りたるが如きを以て当方に於いては現地部隊に対し国家保全の大局に立ち万事を諦め完全なる無抵抗主義に徹すべき旨指導したり」。
南樺太全部隊の武装解除が終了したのは8月28日であり、日ソ戦闘開始から日本軍の死亡者は千島を含み約ニ千五百名、在住邦人の犠牲者は、真岡約一千名、恵須取約百九十名、豊原約百名、塔路約百七十名といわれます。
虎頭要塞のことは、はじめて知りました。岡崎哲夫の本は絶版のようなので、ネットで「虎頭要塞」という本が出ているのを知り、そのような本の出版は有意義なことだと思い、積ん読でいいと思って、注文しました。今日届きましたが、少し見てたいへん真面目な本であるのをうれしく思いました。

.. 2007年08月22日 22:05   No.101003
++ タク (課長)…163回       
新京にもソ連軍が雪崩れ込んで来ました。満州国政府のなくなった、その間をうめるべき暫定的な行政機関として、東北暫時治安維持会が結成されました。会長は満州国総理だった張景恵です。ところが、治安維持会の委員は全員、ソ連軍司令部によばれ、その解散を命ぜられてしまったのです。ソ連軍は中央政府をつくらず、その権限はソ連軍自信で握ってしまい、新京など地方機関は、ソ連軍が任命してやらせたのです。

終戦とともに自殺するものが、多数あり、大杉栄のところで有名な甘粕正彦大尉(当時・満映社長)も自殺してしまいました。徹底抗戦をとなえていた人たちは、日が経つに連れ、みな落ちついてしまい、通化で事件を起こした程度でした。ソ連軍が侵攻してくると同時に、一般市民は引き揚げろといってもなかなか組織的にいかないが、関東軍の家族は命令ひとつで動くからといって、一番先に引き揚げてしまいました。その次に満鉄の家族が、汽車を自由にできる利点を使い、一、二等寝台を連ねて、サッと引き揚げていきました。一般の慰留民はほっておいて、軍官の家族だけが引き揚げるとは何事であろうか。

なかでも開拓団の人々は悲惨でした。開拓団は、ソ連との国境近くに入植させられていたのに、見殺しにされてしまったのです。満州では、男は全部、軍隊にとられてしまっていたので、あとには年寄りと女子供だけです。それを引き揚げさせるならともかく、黙って知らん顔をしていたのです。関東軍は前線から引いてしまう、ソ連軍は攻めてくる、その間に入って、ソ連軍の追撃、現住民の迫害、動揺と不安の中を開拓団の苦労はいかばかりであったろうか。「華麗なる家族」を書いた山崎豊子さんの「大地の子」という作品を読んでいただければ、この悲惨の状態がどんなものなの少しはわかることでしょう。

.. 2007年08月24日 08:12   No.101004
++ 伝 (高校生)…62回       
「大量の異民族の血のいけにえのもとに建設された」という言葉では、どういうことかわからないが、その事実は中国人等の捕虜を建設の作業員として使ったことらしい。ソ連が日本人をつかまえて、過酷な労働をさせたようなことを、この要塞では小規模でやったのであろうと思われる。そこで、虎頭要塞が、悲劇的運命をたどったのも、それらの人々ののろいがかかっていなかったといえようかというような感想を虎頭要塞の生き残りの著者が書いているのである。
.. 2007年09月22日 12:24   No.101005
++ タク (課長)…170回       
侵攻してきたソ連兵の掠奪は酷かったと言います。鉄砲を持っては家に入ってきて、みな奪っていく。道を歩いていても、時計が欲しくてしようがないらしく、かたっぱしから盗んでいく。戦争中というせいもあってか、ソ連兵の生活程度は、ずいぶん低い。そして、日本はブルジョア国家である、資本主義国家である、と宣伝教育されているので、やって来たソ連兵は、ブルジョアのものをとりあげるのは、当然の事だと考えていた。ブルジョアからプロレタリアートがものをとるのは、かえって良いことくらいに思っていたのです。家へ逮捕に来た時は、家宅捜索を徹底的にやり、物盗り的捜索です。写真機、ミシン、電気蓄音機という種類のものは、全部、逮捕にきた奴が持っていってしまう。さらに強姦なども多かったので、娘は頭を剃って坊主になり、地下室へ隠れて、気の毒だったと言います。


.. 2007年09月23日 11:07   No.101006
++ 六 (中学生)…36回       
日本人が中国人を殺したなどというと、すぐ政治的に利用される。事実虎頭要塞のあとには、どれくらい政治的かわからないが、日本人の残虐を示す展示場ができているらしい。
しかし、事実(もはや断片的事実であろうが)は認識しておいたほうがいいから、岡崎哲夫の著書から引用する。
「虎頭の地下要塞は、その規模において、世界的な未曾有のもので、戦争の必要と近代技術とが結合してつくりあげた巨大な逸品であり、当時の金で数億と、また労力十数万とを投入して構築された秘密施設」であって、「労力は主として中国軍の捕虜を使役し、日本人技術者がこれを監督したが、この死の労働ののろいが要塞にまつわっていなかったとは断言できないであろう。彼らはいつも目かくしされて地下に入り、受持ちの一廊下、一室の工事に従った。」という。工事のあと、口封じのために、殺されたことが、伝聞か、事実か一部か全部か、しれないような書き方をしてある。あるいは私の読み方が悪いのかもしれない。戦争というものが、すでに残虐なものだから、人間がどういう心理になるかは、想像がつかない。あんまり一般的な話題にしないほうがいいかもしれないが、書いてみた。

.. 2007年09月25日 19:54   No.101007
++ タク (課長)…171回       
「中国青年報」では、中国人の日本のイメージを調査した結果を「日本」と聞いて連想されるものは「南京大虐殺」が83.9%、「日本人は残虐」が56.1%だった。
中国の一般の青少年は、もともと日本人について知る機会は非常に少ない。
一種の白紙状態のところに徹底したマインド・コントロールをほどこしているというのが、現代の反日教育の実態なのです。
この調査からプロパガンダの素晴らしい成果がわかったことでしょう。
これでは、中国人と日本人が仲良くできるわけがないのです。

「虐殺」は中国人にとって、事実であり、絶対に否定してはいけないもので、殺害された人数についてはさまざまに言われています。
過去、「百万人以上」とされていたが、これでは、揚げ足を取られかねないので、その後、中国共産党の党史部と文宣部は「30万人以上」であることを「決定」し、今日ではそれに対する異説は許されなくなっているのです。
数字が確定したので、あとは「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞記念館」など、歴史博物館の展示内容と宣伝技術をいかに強化するのが、残された課題なのです。

.. 2007年09月27日 06:20   No.101008
++ 伝 (高校生)…65回       
樺太では、白旗をかかげる日本の軍使をソ連軍は撃ち殺した。虎頭要塞では、降伏をすすめにきたソ連軍使?を日本軍は斬り殺した。ソ連軍使?としたのは、正式な軍使ではなく、日本人と朝鮮人で、日本人は開拓村の村長だったかなんだったか、そういう人だった。説得しているうちに感情を害したかどうかしらないが、斬り殺してしまった。使者を殺すなどというのは、まったく野蛮なことである。昔、北条時宗は蒙古の使者の首をはねたが、これについてはほめる人が多くて、本居宣長の歌をもじって「しきしまの大和心を人とはば蒙古の使い斬りし時宗」というような歌さえあるときく。使者の首をきったからといって相手を怒らせるだけで、何にもならない。こんなことはほめないようにしないと、虎頭の司令官のような者をうみだしてしまうのでないかと思う。詳細はわからないが、司令官が降伏をうけいれていれば、部下は悲惨な死をまぬがれたのである。自分は己の美学から死をえらぶのもよろしかろうが、人の命をあづかっている者が、考えが足りないのは困る。
.. 2007年09月29日 20:27   No.101009
++ タク (課長)…174回       
ソ連の降伏勧告のとき、満州ではこのようなことがありました。「日本は戦争に負けて、降伏することになっても、私の部下将兵は健在である。私の命令のない限り、勝手に武器を捨てたり、任務を放棄するような者は一人もいないから、満州の民および在留邦人は、決して騒ぐ必要はない。私は上司の命令と、国際法規に従って行動するが、わが部下および満州民と邦人の生命は、私の生命を賭けても保護する覚悟であるから、駐蒙軍の指導を信頼し、その指示に従って行動されるよう切望する」と放送し、直ちに司令部に帰ると、隷下部隊に対して、「別命のあるまで、以前従来の任務を続行すべきこと。もし命令によらず勝手にその任務を放棄したり、その守備陣地を離れたり、または武装解除の要求を受諾した者は、軍律に従って厳重に処断する」ことを伝え、とくに丸一陣地守備隊に対しては、「その理由の如何を問わず、陣地に侵入するソ軍は断乎これを撃退せよ。それによって起こる責任は、一切挙げて司令官が負う」と重ねて命令した。この事がありシベリアに連行された方はここでは皆無でした。

.. 2007年09月30日 09:02   No.101010
++ 六 (中学生)…37回       
そういう素晴らしい人がいたのですか。調べてみると、8月16日の停戦の大命は「停戦交渉成立に至る間敵の来攻にあたりては止むを得ざる自衛の為の戦闘行動は之を妨げず。」とあったのですね。関東軍司令官はソ連軍の極東軍司令官に即日戦闘停止の申し入れをしたようです。それで各地でまだ戦っているのに、関東軍司令官はさっさと降伏してしまうという形になったのだと推測します。これは自分の身が心配だったのだと批判されてもしかたがないでしょう。敗戦というような時に高い地位にあるのは、その人にとっては災難でしょうが、運命とあきらめて最善をつくすようにしなければならない。りっぱにふるまえば歴史に名がのこる。もっとも名をのこすほどの行動をするには日頃から準備していなければできるものではない。
.. 2007年09月30日 18:23   No.101011
++ タク (課長)…175回       
昭和20年8月15日正午以後、大命を承っては謹んでこれに従うという行動の結果が、自らはシベリアに抑留され、残された140万の慰留民は、血の涙を流す歴史にない惨劇を作り出したことはまぎれもない厳粛な事実です。だが、その時以後、ソ連軍に対し師団以上の規模で勝つことのない限定された本格的戦闘に応じた例が3つあり、その決定をした指揮官とその「大義なき戦い」の戦闘に一命を捧げた同胞将兵に対し、当時の在外居留民がいまだに深い敬意を表しています。

その3つの「大儀なき戦い」とは、1.北千島占守島、幌筵島守備 第91師団(堤不夾貴中将)2.樺太駐屯 第88師団(峯木十一郎中将)3.内蒙古張家口の駐蒙軍(根本 博中将)・・・実兵力独立混成第二旅団だけ。占守島は、日魯漁業の関係者を、全員北海道に引き上げさせた上、満州から移駐した戦車1ヶ連隊(85両)も参加した上での、対等の戦いだったといいます。これに引き替え、樺太では30数万、張家口では4万人の一般同胞を抱え、樺太では戦闘の間に約10万人、張家口ではその全員が退避引揚げることができました。

その大儀なき戦いの犠牲者は、占守島で700名、樺太全土でほぼそれと同数、張家口で70名、そして駐蒙軍は、大阪出身の召集兵を主とした混成部隊で、装備も悪く張口家周辺の鉄道と鉱山の警備が主任務で、到底精鋭などと云える内容ではなかったそうです。その上、多少とも軍隊らしい師団は、上海付近の応援に赴いており、僅か2500名位の治安維持のための混成旅団が、南進して来たソ連外蒙軍と白兵戦を行っています。「自分たちの背後にいる同胞を守らなくてはならぬ」という使命感が、圧倒的優勢なソ蒙軍に対する弱兵の抵抗となったので、樺太と張家口における8月15日以後の戦闘こそは、「大義なき正義」専守防衛の戦いでした。

.. 2007年10月01日 06:25   No.101012
++ 六 (中学生)…38回       
「戦争終結につき陸海軍人に賜はりたる勅語」の日付は8月17日になっていて、「・・・・・汝等軍人、克(よ)く朕が意を体し、強固なる団結を堅持し、出処進退を厳明にし、千辛万苦に克ち、忍び難きを忍びて、国家永年の礎を遺さむことを期せよ」とあります。軍が一切の武力行使の停止を命じた期限は8月25日でした。その数日前には関東軍司令官も参謀長も軟禁状態ですから、あとから見れば、あまり感心しない。その場にいれば、なかなかそんなにうまくはいかないのはわかっていても、どちらかといえば反面教師でないかと思っています。こういう時は直観がものをいいます。平常の熟慮がなければだめですが。私はいまのところ、口だけですが。
.. 2007年10月01日 21:05   No.101013
++ 六 (中学生)…39回       
出処進退ではなしに、出処進止でした。なお勅語の漢字は原文通りではありません。
.. 2007年10月01日 21:23   No.101014
++ タク (課長)…176回       
勿論、あの広い満州の各地で、終戦後関東軍将兵による抵抗が行われたことは、その他で終戦を迎えた在満同胞はよく知っています。しかし、軍隊という組織は、最高責任者がハッキリとした考えを示し、隷下の部隊がそれに副う行動をしてこそ、その1人1人の行動に意識があります。それが、指揮統制はとれず、情報命令も伝わらないまま、多くの武装集団が、南をさして落ち延びる途中、食糧調達のための部隊を襲い、またその反撃を受けるという行動をくれ返したのでは意味がありません。

だからそこの人たちは、秋風吹きしきる中を、ソ連軍に命ぜられて降伏を勧告する役の、丸腰の日本将校に「戦争は8月15日に終わった」と教えられると、全員が気抜けして、待っていた武器を投げ捨ててアッサリと降伏しました。しかしそういう心境におかれた将兵こそ哀れであり、個人の力で歴史の歯車を回すことはできないけれど、考えれば考える程無念という外はありません。

.. 2007年10月02日 21:23   No.101015
++ 伝 (高校生)…66回       
今の人はほとんど、知らない話だけど、日本がポツダム宣言を受諾して降伏するとき、国体の護持ということが問題になった。阿南陸軍大臣は国体の護持の保証がないかぎり、死中に活を求めて徹底抗戦すべきと主張した。聖断の下ったその夜だったかに阿南大将は切腹して自殺した。「一死大罪を謝したてまつる」という言葉をのこして。まだ、よく調べていないけれど、少し前にポツダム宣言受諾の動向を聞いた将校?たちのクーデター計画があって、どうもかつがれそうだとか言っていたとかいう。そういうことを止めるという関係もあったかもしれない。また無条件降伏などということは陸軍の辞書になかったかもしれない。しかしながら、あとから考えると、腹を切るなら9月2日にしたほうが筋が通る。承詔必謹で整然と降伏したというが、相手が紳士ならそれでよいが、もし無茶をやるなら一泡ふかせるという態度も必要だったのでないか。停戦を控えて陸軍大臣が死んでしまっては困るではないか。関東軍司令官も英気のある人ならよかったが、陸軍大臣はよけい有終の美を考えなくてはいけない立ち場だろう。負けることを考えていなかった軍人だから、要求するのは無理であり、異常事態で超人的ふるまいをするのは、至難であるのはわかるが、8月15日以後には無念なことが多い。
.. 2007年10月10日 21:44   No.101016
++ タク (課長)…177回       
昭和20年8月14日午前10時 海津参謀総長、豊田軍令部長、阿南陸軍大臣が死中活を求める抗戦を主張し、ポツダム宣言受託に反対の意見を言上した後の天皇陛下のご発言である。「自分はどのようになろうとも国民を助けたい。この上戦争を続けては全く焦土となり、万民にこれ以上の苦悩をなめさすことは忍び難い。日本が無くなってしまう結果に比べ、少しでも種子が残りさえすれば、また復興という光明も考えられる。私は明治大帝が涙をのんで思いきられた三国干渉当時のご苦衷を偲び、この際絶えがたきを耐え、忍び難きを忍び、一致協力将来の回復に立ち向かいたいと思う。今日まで戦場にあって非命に斃れた者、またその遺族を思うときは、悲嘆に耐えぬ次第である。

また戦傷を負い戦災を蒙り、家業を失いたる者の生活に至りては、私の深く心配するところである。この際私としてなすべきことがあれば何でもいとわない。国民によびかけることがよければ私はいつでもマイクの前に立つ。一般国民には、今まで何も知らせずにいたのであるから、突然この決定を聞く場合、動揺も甚だしかろう。陸海軍将兵は、さらに動揺も大きいであろう。この気持ちをなだめることは、相当困難なことであろうが、どうか私の気持ちをよく理解して、陸海軍大臣共に努力し、よく治まるようにしてもらいたい。必要あらば、自分が親しく説きさとしても構わない。この際詔書を出す必要もあろうから、政府は早速起案してもらいたい。以上が私の考えである」と。

また、阿南氏は自殺する直前、「もう一度石原莞爾に会いたいなあ」と夫人が語っています。山形県鶴岡の石原莞爾の家には、阿南氏の死を弔う弔旗が立っていた。彼は軍人の政治干与を禁じ、もう1度、皇軍を粛正にするつもりであったらしいが、あまりにも遅すぎたのです。

.. 2007年10月11日 07:01   No.101017


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