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HINAKAです。
12月8日を、うっかり自覚せずに過ごして、夜中の今日のニュースで知って、ギリギリ23時以内に黙祷しました。 余り色々、マスコミが取り上げなかったのは、平成天皇の即位50周年に遠慮したからだと言う説もありますが、ちょっと関係ない気がします。
それよりも「記念日」という日本語の微妙さが、最も強調される日なのかも知れないと、真面目なネットの書き込み等を見て、思いました。 辞書的には、英語の「メモリアル・デー」記憶に残すべき日の直訳で、「記念」メモリアルそのままで、記憶・記録に残し、その事を再び思い起こす(念には、思い起こし、考え反省するという意味も、喜びや楽しさを新たにする事と同時に含まれます)という事で、文字的にはまったく問題は無いのですが、どうも「考え反省する」という意味は無視され、「祝う」という意味のみが独り歩きをしているように思います。
もちろん、有名な現代短歌「〜今日が私のサラダ記念日」にもあるように「失恋記念日」などの、個人的感傷や、終戦(敗戦)記念日・防災(関東大震災)記念日など多くの犠牲が出た弔いの意味での、「念」は念仏等の仏教用語としてOKらしいのです。 ですが、「何で、戦争を始めて日が目出度いの?」などと、かなり常識的な書き込みをする方が(30代以前とは思いますが)真面目に、質問されるとやはりガックリとします。
「記念」という訳語の問題か、それともそこに込められた、「忘れずに、思い返し、反省し、思いを新たにする等」の意味が知られていない事が問題なのでしょうか? 多くの国民的な記念日が、「国民の祝日」と一緒になっている事にも、理由があるのだとは思いますが、「記念」には「自らが招いた過ちに対する、謙虚な反省」という意味がある事を、いつの間にか切り捨てて祝い事と、お弔いという意味だけが伝わるのは、いかがなものか?「失恋記念日」もいわば「恋」のお弔い日ですから……。
妙な話ですが、「開戦記念日」が無ければ、本当に記念日とは、祝い事とお弔いだけになっていたかも知れ無いと、無意味な焦燥感に囚われる今日この頃です。
それでは今回は、これで失礼致します。
.. 2009年12月14日 08:17 No.634001
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