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■--基本的には、鎌倉に尽きるのです。
++ HINAKA          

HINAKAです。

城塞都市、に関してですが。

しつこいとは思いますが、やはり「鎌倉」を1番に推したいと思います。
人工的に、全てを作り上げた点では大坂に軍配上がると思いますが、当時の兵力を考えた場合、事実上自給自足が可能で、援軍無しでも長期間持ち堪える事の出来る、本格的な軍事都市として、戦史以上に日本史上に残る都市だと思います。
これは、まず第1に日本史上初めての純軍事政権の根拠地として、文字通り1から軍事的防御を主眼に、人工的に作り上げられた、希有な都市だという事が言えると思います。

その後の日本史や、戦国時代の華々しい戦史の陰に隠れた形で、源頼朝が成し遂げた(まず基本的には、東日本一帯の)純軍事政権及び、軍事的領主=武士によるよる、領国の支配体型。日本史的には、「守護地頭」の設置という一言で片付けられていますが、これは重大な問題です。
まずそれまでの(今までは大和朝廷と言われていますが、現在そのような統一政権の存在は、疑問視されています)古代以来の祭政一致による、神を拠り所にした軍事政権。基本的には、兵力すら神仏を味方にしなければ、召集もままならない近畿圏地方豪族の集団。
有名な、聖徳太子と恵美氏(漢字に、自信なし)の連合軍対当時の軍事担当貴族物部氏の対決は、新興勢力としての仏教対従来の神々信仰に対する対決という形を、取るしかありませんでした。
本当は、単なる宮廷内の新興と保守との、勢力争いとも言えるのですが……。

とにかく、政治権力と軍事力は、信仰によって結び付いて初めて効力を発揮するのが、古代の伝統的支配体系でした。
とことん、祭政一致の軍事政権という在り方が、日本の平安京を中心とする貴族支配の根幹でした。これはそもそもは、純軍事的な勢力として台頭して来たはずの、「平氏」平清盛をも貴族政治に取り込む事により、純軍事支配を巧妙に避けています。
ちなみに海外の日本研究者には、この辺の歴史的展開を踏まえ、「基本的に日本人は、軍事的支配に否定的だった」との見解が根強くあるそうです。

朝廷による、完全中央集権の律令制を経て、貴族支配の荘園制に移行しても、この流れは変わりません。
コレを完全に打破し、またく新しい純軍事的政権「幕府」を、日本史上初めて誕生させたのが、頼朝です!
この画期的な存在について、何か余りにも評価が低い、もしくは興味が少ないと、考えざるを得ません。

基本的に頼朝はまず、東国の武家政権による、武家としての領主とその臣下による、領地領民の支配。
領民は、そのままその領主の兵力として召集される仕組みですが、それまでの荘園制下では隷属的に扱われていた領民が、「自分の土地(領地)を守る」為に、後の有名になる「一所懸命」(一生懸命とは、違います)の合い言葉に結ばれ、そこに信仰の入る余地はありません。
そして、その領地を安堵(保障)するのが、武家の頭領である「将軍」の存在です。
つまり事ここに至って、初めて日本オリジナルの武力政権が誕生したと言えます。

そして、その根拠地であり、政治中枢として新たに作り上げられたのが、「鎌倉」という日本史上稀に見る軍事都市だったと思います。
確かにこの背景には、そもそも未だ敵兵力をそこでくい止めるだけの「城塞」が、技術的になかった。ことが、最大の原因だと思います。そして、別のところに奉られていた、天皇の武力の象徴とされていた3種の神器の1つ、「草薙の剣」を奉る鶴ヶ丘八幡宮を強引に移転し、中心にした事からも未だに「神頼みと天皇を奉る」歴史的背景を引き継いでいる事が分かります。
〈続く〉

.. 2008年12月04日 08:14   No.404001

++ HINAKA       
HINAKAです。

《前述訂正、「恵美氏」ではなく「蘇我氏」でした》

〈続き〉
ですが時代は、まだまだ政治的軍事的に、安心できる状態ではありません。
基本的に、地図上は東を頼朝の武家政権が、西を後白河法皇を頂点とする京の朝廷が、支配するいわば2重政権構造だったいうのが、現在の見方です。
この状態では、いつ西から天皇を旗印に討伐軍が起こるのか、わかりません。従って頼朝は政戦両略で、この事態を避けるべく、自身は鎌倉を一歩も動かず、京都に六波羅探題を置き、弟・義経(諸説ありますが)を派遣し、平氏追討を名目に西国支配への地歩を固めて行きます。

ですが、この当時の鎌倉政権自体も常に内憂外患の、不安定な状態にあり、ただ武家の体表である源氏の筆頭だった、頼朝に人望と元々平氏でありながら、それを受け入れた北条氏の勢力でのみ、成り立つ政権でした。
ここに実は、武家政権下の女性の立場を代表する2人の、女政治家・頼朝の正妻であり北条氏の頼朝支持の基盤である北条政子と後白河法皇の更衣(愛人筆頭?)となった高階栄子の、在り方から決して江戸時代までは日本女性は日陰の存在ではなかった事が、証明されています。

ですが、基本的には弟・義経を匿い殺した罪により、この当時最大の当方勢力、奥州藤原氏を討伐するまで、頼朝は鎌倉を動きません。
逆に言えば、動けない状態だったとも、言えます。だからこそ、その根拠地である鎌倉の防御は完璧でなくてはならず、現在も夏の行楽シーズンに、この地を訪れようとすると、大混雑か大渋滞を避けられない都市である事が、全てを物語っていると思います。

そして、人工の城塞都市といえば戦国末期の、大坂という事になるのですが、自治都市として独自の軍事力も有していた、「堺」はどうだったのでしょうか?
どうもこの辺は、曖昧でハッキリしませんが、当時としては平地のとしては比類の無い、掘りと塀で防御してあったと言われていますが……。

完全に、閑話休題ですネ。
今回は、以上です。

.. 2008年12月04日 08:20   No.404002
++ 多足       
失礼を承知で言わねばならないようです。
会話をして下さい。
以前、イージス艦事故の際、散々問題になりましたよね?
HINAKAさんはレーダー云々の一般論を挙げ、言いたいことを言い続ける。
自分は、その一般論の認識の誤りを指摘し、話を続けようとしたけども、何度説明しても伝わらない。
また、その後の全体主義国家云々の時も、こっちが示した「全体主義」についての説明を無視し、一般論としての全体主義という言葉、ファシズムについて語るのみでしたよね?
今、また同じことやってますよ。
「空気読めなくて申し訳ない」とか、「そんなつもりではなかったのに」とか、「困惑しています」とか逃げを打った後、また自分の言いたいことのみを挙げ続け、会話をしていない。
重要なことなので何度でも言います。
会話してください。

.. 2008年12月05日 00:00   No.404003
++ 多足       
まあそれはそれとして。
鎌倉は日本初の本格的城塞都市であり、その根拠は、地形を利用した防御力、地域全体での自給自足。
戦国時代後期より、技術の発展で本格的な要塞としての城郭が登場。
その後、政治・経済機能との両立を考えた城塞都市(大阪城)や、権威的な政治中枢としての城郭(江戸城)が、それぞれの時代背景の中、発達していった。
以上でよろしい?

あー、マジノ線の話してえ(笑)

.. 2008年12月05日 00:09   No.404004
++ つかじ       
ちょっとだけ自分もお話。教官の中での「城塞都市が鎌倉」だと言うのもよ〜く理解はしていますし、言いたい事も理解はできて居ます。
が、ちょっと長いです(汗)そして、失礼を承知でカキコしますが、続ける様なお話でもないです。ワンポイントとしては、「鎌倉とかも城塞都市じゃ無いかな?」程度で良いかと?

教官がお話してくれるのは嬉しいのですが。その場合ズラ〜っと書くでしょ?そこまで詳しく書く必要も無いかと思いますよ?あくまでも「こんなのあるよ?」程度で楽しみましょうぜ!!

と言う訳で。「城話」を振った人間からでした。

.. 2008年12月05日 12:54   No.404005
++ 多足       
鎌倉、マジノ線ともに他所に移ったんで、そっちに行きましょうか。
.. 2008年12月06日 20:00   No.404006


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