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HINAKAです。
城塞都市、に関してですが。
しつこいとは思いますが、やはり「鎌倉」を1番に推したいと思います。 人工的に、全てを作り上げた点では大坂に軍配上がると思いますが、当時の兵力を考えた場合、事実上自給自足が可能で、援軍無しでも長期間持ち堪える事の出来る、本格的な軍事都市として、戦史以上に日本史上に残る都市だと思います。 これは、まず第1に日本史上初めての純軍事政権の根拠地として、文字通り1から軍事的防御を主眼に、人工的に作り上げられた、希有な都市だという事が言えると思います。
その後の日本史や、戦国時代の華々しい戦史の陰に隠れた形で、源頼朝が成し遂げた(まず基本的には、東日本一帯の)純軍事政権及び、軍事的領主=武士によるよる、領国の支配体型。日本史的には、「守護地頭」の設置という一言で片付けられていますが、これは重大な問題です。 まずそれまでの(今までは大和朝廷と言われていますが、現在そのような統一政権の存在は、疑問視されています)古代以来の祭政一致による、神を拠り所にした軍事政権。基本的には、兵力すら神仏を味方にしなければ、召集もままならない近畿圏地方豪族の集団。 有名な、聖徳太子と恵美氏(漢字に、自信なし)の連合軍対当時の軍事担当貴族物部氏の対決は、新興勢力としての仏教対従来の神々信仰に対する対決という形を、取るしかありませんでした。 本当は、単なる宮廷内の新興と保守との、勢力争いとも言えるのですが……。
とにかく、政治権力と軍事力は、信仰によって結び付いて初めて効力を発揮するのが、古代の伝統的支配体系でした。 とことん、祭政一致の軍事政権という在り方が、日本の平安京を中心とする貴族支配の根幹でした。これはそもそもは、純軍事的な勢力として台頭して来たはずの、「平氏」平清盛をも貴族政治に取り込む事により、純軍事支配を巧妙に避けています。 ちなみに海外の日本研究者には、この辺の歴史的展開を踏まえ、「基本的に日本人は、軍事的支配に否定的だった」との見解が根強くあるそうです。
朝廷による、完全中央集権の律令制を経て、貴族支配の荘園制に移行しても、この流れは変わりません。 コレを完全に打破し、またく新しい純軍事的政権「幕府」を、日本史上初めて誕生させたのが、頼朝です! この画期的な存在について、何か余りにも評価が低い、もしくは興味が少ないと、考えざるを得ません。
基本的に頼朝はまず、東国の武家政権による、武家としての領主とその臣下による、領地領民の支配。 領民は、そのままその領主の兵力として召集される仕組みですが、それまでの荘園制下では隷属的に扱われていた領民が、「自分の土地(領地)を守る」為に、後の有名になる「一所懸命」(一生懸命とは、違います)の合い言葉に結ばれ、そこに信仰の入る余地はありません。 そして、その領地を安堵(保障)するのが、武家の頭領である「将軍」の存在です。 つまり事ここに至って、初めて日本オリジナルの武力政権が誕生したと言えます。
そして、その根拠地であり、政治中枢として新たに作り上げられたのが、「鎌倉」という日本史上稀に見る軍事都市だったと思います。 確かにこの背景には、そもそも未だ敵兵力をそこでくい止めるだけの「城塞」が、技術的になかった。ことが、最大の原因だと思います。そして、別のところに奉られていた、天皇の武力の象徴とされていた3種の神器の1つ、「草薙の剣」を奉る鶴ヶ丘八幡宮を強引に移転し、中心にした事からも未だに「神頼みと天皇を奉る」歴史的背景を引き継いでいる事が分かります。 〈続く〉
.. 2008年12月04日 08:14 No.404001
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