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■--要塞と城塞と城塞都市。
++ HINAKA          

HINAKAです。

せっかく、何だか綺麗にまとまっていた話しに、わざわざや藪蛇みたいで恐縮です。
日本に限定して、城及び城塞に関しては、またくつかじさんの仰る通りだと思います。
問題は、「要塞」という言葉と「城塞」という言葉の違いなのですが、言葉遊び的でどうでもいいと言えば、どうでもいいとは言えると思います。

一応気の利いた辞書等では、城塞と要塞の違いに関して、2点を上げているハズです。
特に第1次大戦以降、空からの爆撃や砲撃に対しての、防御用の強固な天蓋を設けているものを「要塞」、中世以降平時には、支配者の権力の象徴として、そして戦時には最終的な防御施設としての機能を兼ね備えたモノが、「城塞」あるいは「城」と呼ばれ、戦時的防御施設を持たない権力の象徴と、政治の中枢としての豪壮華麗な施設は、「宮殿」という分け方が出来るようです。

日本においても、信長以降の火力の飛躍的増大と、常備軍の大量動員が可能となって以来。
その基盤となる経済力を維持するための、城下町を有する支配者権力の象徴と、権力の中枢としての機能施設としての「城」と、このような時代に戦闘になった場合、包囲攻城戦となるのは、政戦両略で追い込まれた挙げ句となります。城を直接攻撃されても、持久戦を行う意味は、本当の主力は別にあって、その場での敵の消耗と足止めが、大きな戦略意図(捨て石としての意味)がある場合と、援軍が見込まれる場合に限ります。

そして、その場合でも平時における支配者の象徴としての城と、防御中心の城とは別に用意するのが、信長秀吉時代の戦術構想でした。
しかし秀吉により、一応天下平定がされると、不便極まりなく、同時に戦闘色濃厚な山城は、維持管理の問題もあり、秀吉の目を畏れる意味もあって破棄される方向にありました。
秀吉自身、政治支配と援軍到着までの防御機能のみを極大化させた、平城の典型とも言える大坂城を本拠地としながら、実際の政務は京都の聚楽第や伏見城で行っています。彼自身は文言として残していませんし、実際統治期間が短かった為に、具体的な政策としては残っていませんが、最終的には徳川幕府と同様、豊臣家以外は1国1城という形式に、落ち着いてのではないかと言われています。

信長は、未だ天下統一を果たしたとは言えない状況でしたので、平時の安土城の背後に典型的な山城の観音寺城を築城する(信長自身が陥した、三好氏の名城跡がそのまま残っていました)予定だった、ようです。
さらに、難攻不落の城を自分が攻略に大変に苦労した、石山本願寺跡、つまり秀吉が大阪城を造った場所に、同様に設置して、当面2ヶ所の連携で、戦時に対処する予定だったようです。

典型的な山城であり、自身発祥の地であり、根拠地でもある岐阜城をそのままにしておいたのも、戦時用という意図が大有りだったと言う事のようです。
秀吉は、天下平定を全国に知らしめるために、敢えて戦時用の山城ではなく、平地に町に匹敵する大規模な城を建てて、敢えて戦時用の山城が不要である事を、全国にアピールしたとも考えられます。
この、戦闘バージョンが、有名な小田原攻めで、それこそ難攻不落の山全体を城にした、典型的な山城として有名だった小田原城を、大兵力と大火力(実質的な役割はなく、多分に示威目的だったようですが、皮肉にも自分の死後、自分が作り上げた大坂城を攻撃された時に、大いに威力を発揮しました)で恫喝し、政治力で内部分裂させた末、最終的には事実上の無血開城へ追い込んでいます。
〈続く〉
.. 2008年11月30日 15:28   No.401001

++ HINAKA       
〈続き〉

これは、単に関東の雄として最後に残った、抵抗勢力である北条氏を屈服させる為だけではなく、自軍に参加した諸大名にどんなに堅固な城を有しようが、もはや自分に対抗する事は不可能だという事を知らしめるという、政治的意図が大いにあったと思います。
当然この事実は、信長と秀吉双方のやり方をその傍らで、時には敵対しながらも見てきた、家康には充分に理解できたのでしょう。

秀吉が、その北条氏の後釜として、関東地方の支配を命じた時に、特にその中心を当時未開の湿地帯同然だった江戸に定めたのは、まさにもはや戦闘用の城は自分に対する造反という以外には、不要だという事を、最大最強の大名である徳川氏を通じて、天下に知らしめたとも言えます。

皮肉な事に、幕末の戊辰戦争時に、当時もっとも近代的だった火力。
アームストロング砲などを中心とした官軍の攻撃だけでは、会津城を始め多くの平城が充分持ちこたえた事に、日本の築城技術の高さが伺えます。

さて、最後に「城塞都市」ですが、つかじさんが仰るように特に大阪城の「総構え」などは、中にスッポリ町が収まるような、壮大な人工の城壁と、今も残る大阪の掘り川でわかるように、これも幾筋もの掘りで囲われ、それ自体を町と呼んでも差し支えないかとは思います。
思いますが、個人的には総構えの内部は、やはり城の一部であり町の一部とは、言い難いのではないかと思います。
特徴的なのは、大阪城がいかに壮大堅固な城であっても、城下の町民全てを収容して、籠城できる城ではなかった事が挙げられます。

鎌倉を唯一の「城塞都市」としたのは、天然の要害を利用し、文字通り都市1つを丸ごと城塞化した唯一の場所であるという認識です。
鎌倉は、基本的に江戸と同じく、ほとんど人工的に作られた都市です。当時の築城技術では、文字通り堅固な城塞は造れません。
そこで源頼朝は、交通の要衝でもなければ、豊かな農作地でもない鎌倉を、武家政権の根拠地としました。
これにはかなり複雑な当時の歴史的、政治的な背景がありますので、あくまで要塞都市として機能だけで考えます。
同じように、何も無かった場所に人工的に作られた、政権中枢として江戸があります。しかし、御存じのように江戸は、確かに広く見れば西側が山に囲まれて、西方勢力の侵攻に対しての迎撃には向いている……と考えられなくも在りませんが、当時としてはもちろん、現代的に見てもその範囲が広すぎます。
ですから、江戸の町全体を要塞化する事は、不可能です。鎌倉は、町全体が要塞ですので、自然とそこに生活する人々も、要塞の中で生活する事になります。
逆に言えば、確固たる城塞の無かった鎌倉時代にには、鎌倉に敵の侵入を許せば、自動的にそれは幕府の敗北を意味していたと言えます。
ですから、都市としての防衛機能が、著しく発達した、日本史上稀な人工都市と言えると思います。いわゆる、火力の発達時代である近世を経た西欧では、今日にまで伝わる都市が、城塞化されていた例は、数知れません。

むしろ、当時は城塞の中に入れば(外壁の中)人間の住む世界でしたが、その都市と都市とを結ぶ中間は、農作地と農家の集落以外は、文字通り人知の及ばない未開の地であり、その森や山は魔物や凶暴な動物、化け物の達の巣窟と考えられていました。

〈まだ続く〉


.. 2008年11月30日 16:32   No.401002
++ HINAKA       
〈その続き〉

有名な、モンゴル騎馬民族による、ウィーン包囲もその外壁を挟んだ睨み合いでした。これは当時のウィーンが、完全な城塞都市だった事を物語っています。
この堅固な城壁を壊して、その後に路面電車を走らせたのが、有名な最後のハプスブルク皇帝ウィルヘルム1世です。その為、今でもその路面電車の路線はそのまま、リングと呼ばれているそうです。
当然ですが、そのリングの中には元々の住民はもちろん、外に暮らす農民なども収容する、都市であり要塞であったと言える訳です。

中世以降、近代までの西欧の内陸部にある主要都市は、ほとんどがこの城塞都市機能を持っていた様です。これも、ジャンヌ・ダルクの活躍で有名なオルレアン市もまた、救援を待つ城塞都市でしたが、当時のフランス軍にはその力が無く、陥落は時間の問題……というのが、ジャンヌ伝説の端緒です。
ですからヨーロッパ史の場合、城の陥落とはそのまま都市の陥落となり、中に逃げ込んでいた非武装の住民達も、侵入して来た敵兵達に虐殺暴行略奪の限りを、尽くされる事になりました。
これは、日本の戦国史でも、落城する時には同じ事が城内で起こりましたし、それ以前に包囲された時点で逃げ遅れた住民は、同じ目に遭っています。

とまァ、このような観点から、日本史上で城塞都市と呼べるのは鎌倉だけだと、個人的には思っています。
日本は、その国土のほとんどが急峻な山岳地帯で、平野部が著しく少ない地形をしています。
その為、難しい事を考えるまでもなく、その山間部に逃げ込めば、攻める方はおいそれと追い討ちがかけられなかった事が、城塞都市が発達しなかった原因かも知れません。
戦国時代以前、京(みやこ)で政変が起これば必ずと言っていいほど、追われた側は吉野山(紀伊半島)に逃げ込んでいます。
山伏を初めとする、修験道の本山とも言うべき、熊野神社を頂点にするこの一帯に逃げ込まれると、大軍での追い討ちはほとんど不可能です。恐らく現代でも充分ゲリラ戦で、大兵力に対抗できると思います。
だから徳川家康も、熊野と伊勢の二大宗教地を擁する、この地を重要視し、御三家の一角で治めさせたと言えます。

という事で、今回は以上です。


.. 2008年11月30日 16:37   No.401003
++ つかじ       
長い・長いよ教官w
>鎌倉
まぁこれは先に書いた通り、「鎌倉」と言う土地よりは「鎌倉を有する地方」がそう言った攻め難い場所と言った方が早いでしょう。
鎌倉と限定しちゃうと、その地方の特色も無くなっちゃうからね。

>源平時代
仰る通り、敵勢力が入ってしまったらお終いってのは正しいでしょう。これは先にも書きましたが、「敵勢力を押し返す程の強固な城を築く技術がまだ無い」のが理由ですね。
なので、自然とこの時代の勝敗は野戦中心ですね。一の谷は特殊。場所も天然の要害ですが。天皇を有する御所としても機能させる為に、防御を施す必要があったのが理由でしょうね。

>小田原・岐阜
細かい事ですが小田原は「平山城」、岐阜が「山城」ですね(汗)
また、岐阜城・観音寺城は意外にも山城としては
落城の機会が多い事でも知られて居ます。
それは、籠城する為の居城と言うよりは。「時代的に見て、平城を築城する技術が無かったので、当主が居を構える為の山城」と見た方が早いでしょう!

特に観音寺城は顕著で。攻め落とされる(もしくは落ちのび)・取り返すが繰り返されて居ます。
それは、観音寺城が典型的な政治城だからです。このお城は先見的で、家臣一同が居を構えて居て先見的ですね。
なので、個人的には岐阜・観音寺に戦闘用城ってのは、ちょっと意外と言うか本気なのかな?と疑って見てました。

但し、観音寺城が当時最大の山城にして、石垣作り等の改築が進めれれ、上記説明以上防御力は誇っていたのでしょう。要は城主がヘタレだったw

また、これも細かくなりますが。大阪は信長の次の居城としての役目も有りました。なので、信長が四国を統一していれば、次はここに壮麗な城が建った事でしょう!では。

<長門さん
なるほど、城名明かすと名前が分かっちゃうんだね?でも、城主を任されるんだから信頼は厚かったんでしょうね。

.. 2008年12月01日 04:36   No.401004
++ 多足       
藪蛇、ねえ…
どんだけでかい蛇が潜んでたのやら。

鎌倉、江戸、小田原、大阪。
これらが城塞都市、要塞と見ることができる日本の城って具合でOK?

.. 2008年12月01日 08:47   No.401005
++  長門       
>つかじさん

いや、任されているんじゃなくて君主です。
持ち物ですって^^;;
取り合った相手は有名です。はい。
負けた我が家は歴史にうずもれました。

>多足さん

鎌倉 文句なし
江戸 どちらかというと、平安京のようなもので、城塞都市といえるかは微妙かも
小田原 後北条時代なら、文句なし
大坂  豊臣時代なら文句なし。江戸時代は、層構えがどうなっていたのか、まったくわからないのでそこら辺の評価が微妙。


.. 2008年12月03日 21:47   No.401006
++ 多足       
江戸は軍事拠点としての機能はポーズ的なもので、政治中枢としての機能優先、権威の象徴を優先した、乱世の決着を意味する町、といった感じでしょうか?
純軍事的なもので、今でも残ってるという意味ではやっぱ大阪城を推したいトコロであります。

.. 2008年12月04日 00:42   No.401007


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