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■--質問なので別枠に書きます
++ つかじ          

お城は要塞に入るのかな?念の為に言っておくと戦国時代のです。

大体城は。政治中枢、重要な街道の防御や壁の役目、敵との境目の警備、敵領地・城攻略拠点と言うのが目的ですが。要塞が敵を押し返す、進行を諦めさせる目的もあるのなら同じになるのでしょうかね?
守りも攻めも出来る拠点、が個人的なお城と言う認識なのですが。

まぁ当時の街道が余り発達していなかったから、避けて通るには時間も労力も掛かるから落とさざるを得なかった、ってのもあるんでしょうがね(汗)
迂回した場合も、後方を煩くされるだろうし。補給維持の心配も出てくるし。

また、当時の特徴としては。複数の支城との連携も考えて防衛線を引いていたので、ある意味広範囲に渡る壁とも見えると思います。なので、要塞かな?〜と。
.. 2008年11月26日 09:33   No.398001

++ 多足       
要塞、永久陣地、野戦築城、城塞都市、城郭。
これらの言葉を、各個人がどう認識しているかが問題になってきそうですな。
思うに、HINAKAさんの想像する「要塞」ってのは、自給自足にこだわるあたり、「城塞都市」に近いんじゃないかな、と。
自分の場合、野戦築城の強力なヤツならもう「要塞」だと思ってます。

さて、日本の戦国時代の城となると…
「城塞都市」って感じのするものは日本ではあんまし無い気がします。城郭と、その城下町。城下町を囲む防壁や堀があるなら「城塞都市」なんでしょうが、大陸の方では多く見られるものの、日本ではそんなものあったっけ? イマイチ思い浮かびません。
ってか、歴史は近代史以外かなり疎いんで、小田原城とか江戸幕府初期の大阪城とか、それくらいしか浮かばんのです。
現在残ってる城郭は、ほとんどが江戸期のものですよね。戦国時代なら、本拠地はでっかい屋敷レベル、戦場になる所に砦、という位の認識なんですよ。
その認識レベルで考えると…
丸太を組んだ程度の防壁しかない砦でも、複数の砦との連携を考え、運用されるならばある種の要塞線である、と考えます。しかしこれらは野戦築城の延長戦上でしかないように思える。
ただ、あるサイトで長篠の戦以前は野戦築城という概念がほとんど無かった、と見たこともあります。たしかに帷幕程度の陣だと、いくら繋げても要塞っちゃ言わんよなあ。

色々考えると、敵側から特別視されるほどの防御陣地じゃないと、「要塞」と呼ぶには御幣が出るんじゃないかと思えてきました。
作った側が何と呼ぼうが、相手側次第ってことでしょうか(笑)
いずれにせよ、19世紀以前の話だと気の効いた返しが出来なくて申し訳ない。三国志は別なんだが(笑)

.. 2008年11月26日 10:07   No.398002
++ HINAKA       
HINAKAです。

ちょっと、バタバタしているので、「要塞」の個人的な受け止め方について。

まず、事実上日本で城塞都市と呼べるモノは、鎌倉幕府が作り上げた、「鎌倉」しかないと思っています。
これが空前絶後の、日本戦史上における唯一の「城塞都市」ではないかと思います。鎌倉へ行かれた方はお分かりと思いますが、三方を完全に急峻な山に覆われ、人工的に切り開かれた狭い三方向の街道以外、事実上当時の人馬では多量兵力を一気に、乗り込ませる事は不可能でした。
守勢に徹するならば、この3つの入り口で待ち構えて、迎撃すればそう簡単には攻め込めません。
もう一方の、太平洋ですがこれは波が荒くしかも文字通り、都市を囲む山裾が断崖絶壁となって、東西に迫り出していますので、回り込みも不可能です。
当時の技術力では、最大の機動兵力である馬を乗せて運べる船というのが、無かったようでそれも黒潮の太平洋は、荒波で有名ですから、海からの攻撃は無視して良かったようです。
鎌倉幕府を滅亡させ、事実上鎌倉を陥落させた〈新田義貞(ニッタ・ヨシサダ、漢字に自信なし)〉は、最終的に干潮時の、それも年に数度の大干潮の時にのみに岬沖の浜が現れる事を知り、夜間にそこを人馬で迂回突破し無警戒の、幕府軍の背後を急襲したと在ります。

鎌倉幕府は、日本史上初めての、軍事政権であるだけでなく、その首都を人工的に作り上げるなど、その開祖〈源頼朝〉は日本史上稀なる、実に独創的な指導者であったようです。
この件はまたの機会と言う事にして、この鎌倉以降、戦国時代に至るまで日本の戦史上には、いわゆる永久要塞的な「城塞」は存在していないと考えます。
戦国時代に入り、「援軍が来るまで、もしくは敵が疲弊するまでの間、持ちこたえる事の出来る城」が築かれるようになったと思います。
それも鉄砲という大火力が登場するまでは、急峻な山の上に、普段はお寺として、緊急時には野戦築城型の城塞としての機能を持つ、施設を用意しておけば、普段はそのふもとに大きな屋敷を構えて、その周囲にいわゆる城下町を広げるのが、通例だったようです。

〈続く〉

.. 2008年11月26日 12:02   No.398003
++ HINAKA       
〈続き〉

鎌倉以来、平時から敵の急襲に備えた、「城」というのものが巨大化するのは、大火力の集中使用を戦術特化させ、兵農分離を行って、多量の常備軍を持つようになった、織田信長以降と考えていいと思います。
実際、信長にしても有名な安土城は平時の「館」で、緊急時の「要塞」は背後の観音寺山に築城予定だったとされています。
秀吉以降はこれが面倒になり、いわゆる「平城」を極大まで巨大化させた、大阪城を造り難攻不落としました。
ですがそれ以外では攻撃力の増大で、山城(野戦築城要塞と考えていいと思います)の有効性が薄まり、それよりも流通経済の要としての都市としての城下町と、その守護者としての権威と一定の防御力を有する要塞を兼ねた、「城」が出来上がったのだと考えます。

当然、戦国時代には、大きな山城の他に、野戦築城に近い「出城」が、常設もしくは臨時に国境線沿いに造られ、いわゆる防衛ラインを組み立てていました。
これを、粉砕したのが信長から秀吉の、強大火力
と巨大兵力の、大量運用を恒常化させた(つまり1年中攻撃し続ける、武田騎馬隊を代表とするように、それ以前の兵力はほとんどが農民のため、動員は農閑期に限られていました)近世式の、戦術とそれを前提にした、中央集権的軍事政権です。
ですが、どちらもその考え方が余りにも斬新過ぎたのか、短命政権に終わりました。

そして、その後を継いだ?徳川家康は、「一国一城令」と、火力の中心である鉄砲の諸国大名保持の禁止により、歴史観的には中世に戻す事によって、現在見るような「城」を権力の象徴的な領主の館権政治支配の拠点としました。
この徳川政権下の江戸時代によって、日本は特に戦史上からは、近世を飛び越えてしまって、明治維新を迎えるのだと思います。

最後に、多足様つかじさん、御免なさい。
基本的に、近代戦における要塞は地理的に相手がそこを通過しないと、上陸できないような位置に作り上げられたレンテンブルク要塞などしか、頭にありませんでした。
マジノ戦やジークフリート線に関する認識は、1次大戦時の塹壕を、コンクリート製で強大化延長し、トーチカ的な大規模火力を有する程度の、近代戦上は仰るように、戦艦と同じく時代遅れの発想としか、思っていませんでした。

実際に、回り込まれたどうする?という点で、どうしてもそれ以上の考えが出来なかったのです。
しかし、どうやら政治的歴史的には、そこに強固な防衛戦が在れば、国境は破られないという理由が、何あったのですね……まったく、この方面には無知でした。

取り留め在りませんが、今は以上です。


.. 2008年11月26日 12:04   No.398004
++ 多足       
ん〜、やっぱり日本には本格的な「城塞都市」ってのはほとんど無かったと見たほうが良さそうですね。鎌倉かあ。確かにあれって斬新だったんでしょうねえ。
軍事的な山城から、権威的な平城へと移っていく背景。歴史って、こういう見方したら凄く面白いんですよね。単純に今残ってる城郭を比較するのではなく、その背景に思いをはせる。それが面白いわけです。

で、近代の要塞。
たぶんアレですね、HINAKAさんにとってマジノ線、ジークフリート線がアウトで、セヴァストポリがセーフってのはズバリ、その物語性が印象に残ったか否か、それが大きかったんではないでしょうか。
セヴァストポリ、旅順などの有名な攻略戦が、マジノ線には無いですからねえ。マジノ線を攻撃したドイツ軍の狙いは、マジノ線の突破というより、マジノ線にいるフランス軍を動かさないためでしたし。
ジークフリート線に関しては、有名な戦いが無いんですよ。連合軍にあっさり突破されたイメージが強い。でも、これだってかなり頑強に抵抗してます。映画『プライベート・ソルジャー』では、ジークフリート線をめぐる激戦の一つ、ヒュルトゲンの森の戦いを描いており、なかなかにオススメでございます。

.. 2008年11月27日 15:05   No.398005
++ HINAKA       
HINAKAです。

つかじさん。

前述に、追記です。
主に戦国時代、出城は半恒久的な国境防衛拠点としての役割があり、関所として機能していました。当然、その城主にはその国でも名のある武将やそれなりの出自の人が、赴任していてそれなりに(と言っても、国とその城の規模によりけりですが、100以上の単位で)兵力もあり、時には家族も一緒だったりしています。
これに対して、「砦」がほぼ多足様の仰る「野戦臨時拠点」に近いと思います。城としての規模も人員も大した事はなく、いったん事が在れば地理的にそこが重要拠点となる場合もありますが、日常的には無くもOKみたいな施設で、責任者も兵力も大したものではなかったと、思われます。
(黒澤明監督の有名な「隠し砦の三悪人」みたいに、ほとんど山賊のねぐらと変わらない感じだったようです)


多足様。

恐らく、多足様の仰る通りで、個人的に「物語性」が、大きな比重を占めていると思います。
この場合は、いわゆる戦記物ですネ。もちろん難攻不落を誇っても、戦史上無用の長物で、実際には役立たずだった場合なども、その経緯が面白いので、覚えているのかも知れません。

事ここに至って、大変心苦しいのですが、2回の世界大戦などの、特にヨーロッパ戦線はほとんど知識がありません。
たぶん、何とか話題にできるのは、ナポレオン戦争ぐらいまでで、それも世界史観の流れとしてだけです。

特に、マジノ線については従来から、「何で当時のフランスは、あんな防御戦に絶対の自信を持っていたのだろう?回り込まれれば終わりというのは、子供が見ても分かるだろうに……」という認識しかなく、不思議に思っていました。
いずれの機会か、詳細が分かればいいなという程度で、お蔵入りにしていました。
基本的に、当時のヨーロッパ諸国のナチス・ドイツに対する「宥和政策」が、理解不能な現代人の立場で見ておりますので、詳細を御存じの方には、笑止とされても仕方がありません。

さらに、基本的にナポレオン以降の他国での陸上戦闘は、なぜか余り興味を惹かれずに今日に至っております。
ですから、上陸の拠点となる港などを守るための、「要塞」とその要塞に対抗する方法という事くらいのものしか、持ち合わせがありません。そして、これもまた要塞そのものを無力化(要塞は歩けない)という戦術で、終わる例が多いので、拠点防衛という点には、地理的条件と政治戦略が必要不可欠なのだと、思っています。

毎度の事ながら、多足様のご慧眼!畏れ入りました!!いえ、本当です。

それでは、また。


.. 2008年11月28日 01:03   No.398006
++ つかじ       
う〜む、またもや長く、ちょっとづつ違う方向になり始めた気もしないでもないが。まぁ面白い展開でもあるのでちょっと付け足して行こう!

まずは、城塞都市。日本にもちゃ〜んとありますぞ!!その数50近くw
但し、平和になって余裕が出来てから、結果的になった物も有りますがね。

ちなみに日本の場合は「総構(そうがまえ)」と呼んだ方が良いでしょう。
この総構は。街の内外にお堀(空堀・水掘り)と塀(土塁・板塀・漆喰壁)を巡らせ、スッポリと街を防御するお城と城下町ですね。

その代表例としては最も有名なのは勿論「小田原城と石山本願寺」ですね!
これは「直接戦闘」では一回も落ちて居ません!

信長時代で言えば。最も有名なのは「本願寺と有岡城」でしょう。
「本願寺は」言わずもがなですね?信長が、一向宗に降伏を迫り顕如らを追い出して手に入れ大坂城(おおざか?)としました。

有岡城。これは荒木村重が反旗を翻した際の鎮圧に一年近く掛かってます。それだけ総構えが強固な守りなのでしょう!

「小田原城」も。元の城主も後北条氏の先祖である、早雲が謀略で落とした物です。武田・上杉も結局包囲しながらも攻めあぐねて結局撤退。
秀吉が全国の大名を動員し、目の前に付け城を見せつけて、やっとこさ「降伏」と言う形で落ちました。その包囲の中でも平然と市が開かれ、包囲中の秀吉軍が唖然としてますw

また、信長時代には「岐阜城・長浜城」なども総構えです。

そして、最後の大合戦とも言える大阪の変の大舞台「大阪城」ですね!
これは城攻めが得意な秀吉が、今迄築いて来た城と、城攻めの経験を元に作ったお城です。
当時としては、最大最硬のお城だったでしょう!

ただ、その後の「姫路城」も池田家と本田家により徹底的に総構えとされているので、大阪城とどっちが硬いか非常に興味がある!
次へ続く。

.. 2008年11月28日 15:59   No.398007
++ つかじ       
で、次は山城。

山城は、古来より存在した。その理由は「大した技術でなくても作れるから」だ。
山の自然その物が天然の要害として利用出来るし、何よりも施設も多くなくて済む!
だから、余り重要視されてこなかったが、その転機を作ったのが南北朝で活躍する「楠正成」である。何より攻め難いし、入口も限られる。
「小谷城」が良い例でしょう。

>平山城
これは平野の中にある山、丘陵等に築城された城である。広い平野部分で政治を、山間部分で戦をできるようにしてあると考えて貰えば早い。
「安土城・江戸城・姫路城・仙台城・熊本城」等でしょうかね。

>砦
これは野戦での拠点・城攻めでの付け城。宿営地等のちょっとした拠点とした砦と、城を守る為に街道や城の弱い部分のフォローする砦がある。

なので、本格的に堀や塀を築いた物もちゃんとあります。残念ながら、教官の仰る砦はちょっと間違いの部分もあるでしょう。
態々治安の悪化も招く物をそのままにはしません。使い終わった後は破却したりして、敵や野党に使われない様に処理します。
有名なのは「桶狭間の戦い」「賤ヶ岳の戦い」「小牧・長久手の戦い」等の砦が有名ですね。

>鎌倉
鎌倉と言うより「伊豆地方」と言った方が早いかも?実際、ここは戦国時代も明治維新の際にも。山に手惑って居る敵に、海から砲撃されて居たら厄介だったと記述がありますしね。

また、先の補足になりますが。ここでも砦や支城が通せんぼする事により、本拠地に来る前に敵に出血を強いる事が目的でした。
なので、要塞と城とは多少なりともにているのでは?と思った次第でした。
自分も久々に長く書いたな〜w
訂正「本多家」でした。

.. 2008年11月28日 16:33   No.398008
++ つかじ       
流石に眠くなって中断しちまったw

でちょっと追加。

>山城有効性
これは仰る通りの部分もあります。火力の増加、安定した人員の確保により、「難攻不落」と言うより「かなり落とし難い城」へと変わりました。
でも、戦国時代後半でも山城攻めはかなりの苦労を伴ってます。これは技術の発展により、ただでさえ攻め難い山城が。「櫓・櫓門・石垣・堀・漆喰」等で強化されたからですね。
おまけですが、山城の衰退は「経済発展と日常生活」も関係してますね。山城はともかく不便ですからw

>平山城・平城
は。本来、平地は防御に向かない地ですが。技術の発展により可能となった城でもあり、城下町の発展の為でもありますね。
ここを要は政治中枢とすれば、自然と人も物も集まる訳です。

>出城
確かに関所の類として使われた物も有りますが。
本来の役目は、本拠地となる城の守りとそれに続く街道の防御の為でもあります。
要は攻め難くする「杭」の様な役割です。

なので、配置を見ると自然と他城や本城と連携する為に「横陣」もしくは「円陣」となる様に作られています。大きさは大体50m〜100以内が理想的。これ以上大きく作ると本来の城の概念にるので。家康時代になると城作りも疑われるので「お寺などに偽装した出城」を作った伊達正宗等も居ますね。

.. 2008年11月29日 01:54   No.398009
++ 多足       
うん、やっぱり日本の城を考える上で、軍事拠点としての役割から、経済拠点としての役割に変わって行ったということはよくわかりますね。

…っつーか、話スタートさせたつかじさんが最初から結論持ってた部分に、自分とHINAKAさんが色々話した感じになってますね。
釣りか? 釣りなのか!?(笑)
いや、そういう訳では無いのはわかりますが(笑)
余談。最近クマーのAAがお気に入り。

で、HINAKAさんにぜひお伝えしたい事。マジノ線関連です。
マジノ線は非常に強固な要塞線で、近代史上でも特筆すべき規模の要塞です。
ただ、フランス人たちも「これさえあればドイツは攻めてこれない」と考えるほどには頭が温かかったわけではありません。
マジノ線が有る以上、ドイツ軍のまともな進撃は鈍るのは必至。ドイツ軍の第一撃を受け止め、機動戦力によって反撃を食らわせる、そうすればWWTのようにフランス本土が戦場にならなくてすむ。
ドイツ軍がマジノ線を迂回するならば、オランダ、ベルギーを通る必要がある。そうなればイギリスも黙ってはいないので、英仏連合軍で対抗できる。また、戦場がベルギーになるからフランス的には万々歳。
事実、マジノ線を迂回する形でベルギーに侵攻したドイツ軍を、当初の計画通り英仏連合軍が迎え撃ちに行きました。しかしドイツ軍がその裏をかき、ベルギー方面に進撃した英仏軍の後方を、アルデンヌの森を突破してきた快速部隊が遮断、包囲したという訳です。
マジノ線自体は、ドイツの選択肢を限定する目的が大きく、その役割は果たしています。ただ、その要塞に金かけ過ぎた。あと、戦術思想が第一次大戦のスピードに対応したものだった。この辺が問題だったのです。
西方電撃戦という大きな物語の中で、間抜けな存在として語られるマジノ線。この要塞も、本来ならば酷評される代物ではなかったのですが、新しい戦術に対応できなかったため、今のような扱いになっているのです。

.. 2008年11月29日 09:18   No.398010
++ 長門       
 個人的にいうと、日本最高の城塞都市は、太閤秀吉の大坂城ですね。
 秀吉が死ぬ寸前まで増築を続けて、結果大坂冬の陣では一兵たりとも総構えの内に敵兵をいれてないわけですからね。
 小田原城もそうですけど、あっちは、秀吉が攻める気なしに対して、大坂の場合は徳川方が攻めかかってきているわけですから。
 規模で言うと、江戸城が最大ですけど、あれは城下町で火災が起きると江戸城まで飛び火してますから、欠陥品ということでw
 
 関係ないけど、来年こそはご先祖様の城を見物に行きたいなぁ

.. 2008年11月29日 22:17   No.398011
++ つかじ       
>太閤大阪城
ソッチの方ですか。実際徳川版とどっちが凄かったんでしょうかね?
まぁ徳川の約条違反があって初めて陸戦で近づけたのでしょうからね。
まぁ大砲ではドカドカやられちゃったけど。
川船からの砲撃も有ったけど、どうしても大砲の方に目が行かれちゃうね〜。

>江戸城
まぁココは純粋な城ってより、政治中枢向きの城ですからねw

うわー何かまた長門さんが爆弾落として行くしw
何だよそのご先祖のお城ってのは??www
すっごく気になるじゃないですか!!

.. 2008年11月30日 12:49   No.398012
++  長門       
>何だよそのご先祖のお城ってのは??www
>すっごく気になるじゃないですか!!

いや、一応戦国武将で、鎌倉以来の武家だったようで、戦国時代は苗字というか、苗字の由来になった土地に城もってましたから。
まぁ、長野県のある意味有名なとこですが、当然、全国城100選なんぞにはのってません。
一応、城跡というか縄張りが残っているだけらしいですけどね。

とさらに爆弾を投下ww

.. 2008年11月30日 16:36   No.398013
++ 多足       
大阪城。
今の日本人のイメージとして、大阪城ってのは多分「日本最強の要塞」って捉えられてるんじゃないかな? と思ってます。まあ関西圏出身なんでそう感じるだけかもしれませんが。
名古屋城、姫路城、熊本城。このへんが今でも見れるでかい城。つまり、「権威の象徴」としての機能を、十二分に果たせてるってことじゃないでしょうか?
戦闘的な城塞となると…
いいや、次スレに移ろう。 

.. 2008年12月01日 08:41   No.398014


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