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ほいほい
>三成が有能・手厳しい・融通利かない・戦下手・嫌われている、ってのは本当です。これは当時複数の武将の記録からも確認済み。
ええ、これも残った記録がそもそも、東軍の大名であることが大きいです。 有能→有能ですな 手厳しい・融通利かない→公平で賄賂やいわゆる馴れ合いをしなかっただけではないでしょうか?それを批判する今年たいがおかしいです。ただ、主君の秀吉ならそこをうまく、情でカバーしたでしょうが。 また、秀吉のために憎まれ役を買っていただけだという話もあります。 戦下手→これも疑問です。まず、武力がないということに関しては、賤ヶ岳の戦いで全ての事務仕事を終えた後、槍を持っていわゆる七本やりに劣らぬ働きをみせたという話があります。 事実、先駈衆として一番槍の功名をあげたと、一柳家記には記されていますから、単なる文官でないことは明らかです。 これがあまり流布していないのは、江戸時代、東軍についたものの子孫が「三成のほうが評価高いなんて気にいらん」と意図的に、その記録を抹消した(これは、童門 冬二氏の推測です)ということだと思われます。 また、指揮に関してですが秀吉のあらゆる戦いで輜重を担当していたと言われており、その点の有能なことは異論がないかと思います。 そもそも、三成自体が戦に強い必要はなく、島左近・蒲生郷舎・舞兵庫などの有能な家臣をつかって戦に勝てばいいのであって、天下に名を知られる島左近などが喜んで使えていたことから大将としては十分であり、それを使いこなせばいいだけで、 上手いだの下手だのいっても仕方ないかと思われます。 いわゆる、忍城の水攻めが戦下手だという評価の根拠となっているかと思われますが、そもそも三成が戦場で大将としてまともに戦ったのは、忍攻めと関が原くらいしか評価の対象になっていません。 (ま、ここらは私の記憶なので、伏見攻めとか、文禄の役の際、幸州山城の戦いでの負傷とかはつっこまないように) 関が原については、石田軍は6900人で、細川忠興・黒田長政・加藤嘉明・田中吉政ら兵力では倍以上の敵相手に、島左近・蒲生郷舎・舞兵庫らの奮戦もあって持ちこたえており、むしろ有能であるといえます。 配下の島左近が、がんばったからで三成の手柄でないというのなら忍攻めにも左近は参加しており、失敗は三成のせいで成功は左近の手柄だというおかしな評価になります。 忍攻めも結果からみれば、城側を完全に包囲しており小田原城のほうが戦意を喪失して先に開城しただけであって、最終的には落城したのは間違いない話であり、忍城の件で戦下手というのは思い込みにすぎません。 むしろ関が原の戦いの経過からみれば十分に有能であるといえます。 これも、後世に三成を奸臣としてまつり上げた幕府の御用学者の作り話が、従軍慰安婦のごとく一人歩きしているものと思われます。
.. 2007年03月31日 21:36 No.139001
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