返信


■--いつぞやのレス
++ ながと          

ほいほい

>三成が有能・手厳しい・融通利かない・戦下手・嫌われている、ってのは本当です。これは当時複数の武将の記録からも確認済み。

ええ、これも残った記録がそもそも、東軍の大名であることが大きいです。
有能→有能ですな
手厳しい・融通利かない→公平で賄賂やいわゆる馴れ合いをしなかっただけではないでしょうか?それを批判する今年たいがおかしいです。ただ、主君の秀吉ならそこをうまく、情でカバーしたでしょうが。
また、秀吉のために憎まれ役を買っていただけだという話もあります。
戦下手→これも疑問です。まず、武力がないということに関しては、賤ヶ岳の戦いで全ての事務仕事を終えた後、槍を持っていわゆる七本やりに劣らぬ働きをみせたという話があります。
事実、先駈衆として一番槍の功名をあげたと、一柳家記には記されていますから、単なる文官でないことは明らかです。
これがあまり流布していないのは、江戸時代、東軍についたものの子孫が「三成のほうが評価高いなんて気にいらん」と意図的に、その記録を抹消した(これは、童門 冬二氏の推測です)ということだと思われます。
また、指揮に関してですが秀吉のあらゆる戦いで輜重を担当していたと言われており、その点の有能なことは異論がないかと思います。
そもそも、三成自体が戦に強い必要はなく、島左近・蒲生郷舎・舞兵庫などの有能な家臣をつかって戦に勝てばいいのであって、天下に名を知られる島左近などが喜んで使えていたことから大将としては十分であり、それを使いこなせばいいだけで、
上手いだの下手だのいっても仕方ないかと思われます。
いわゆる、忍城の水攻めが戦下手だという評価の根拠となっているかと思われますが、そもそも三成が戦場で大将としてまともに戦ったのは、忍攻めと関が原くらいしか評価の対象になっていません。
(ま、ここらは私の記憶なので、伏見攻めとか、文禄の役の際、幸州山城の戦いでの負傷とかはつっこまないように)
関が原については、石田軍は6900人で、細川忠興・黒田長政・加藤嘉明・田中吉政ら兵力では倍以上の敵相手に、島左近・蒲生郷舎・舞兵庫らの奮戦もあって持ちこたえており、むしろ有能であるといえます。
配下の島左近が、がんばったからで三成の手柄でないというのなら忍攻めにも左近は参加しており、失敗は三成のせいで成功は左近の手柄だというおかしな評価になります。
忍攻めも結果からみれば、城側を完全に包囲しており小田原城のほうが戦意を喪失して先に開城しただけであって、最終的には落城したのは間違いない話であり、忍城の件で戦下手というのは思い込みにすぎません。
むしろ関が原の戦いの経過からみれば十分に有能であるといえます。
これも、後世に三成を奸臣としてまつり上げた幕府の御用学者の作り話が、従軍慰安婦のごとく一人歩きしているものと思われます。
.. 2007年03月31日 21:36   No.139001

++ ながと       

>当時は戦国時代、無力な人間は蹴落として当然。

それは当然ですな。

>また豊臣家は配下の武将ですら嫌っていた事が抜けています。

それに関しては何かカン違いをしていると思われます。(下記にてほそく)

>秀吉は足軽農民の出、そもそもエリート出の各武将達が屈辱を感じてもいた。
>また無謀な出兵でより一層心が離れていく。

まず、出兵に関してですが「無謀な出兵」というのがおかしいです。
戦力的にみてその当時の日本は世界最強の武力国家であり、鉄砲の保有数だけでも全ヨーロッパを軽く凌駕しています。
軍資金に関しても、当時の金銀の産出量の1/3は日本で算出されておりまったく問題ありません。
また、出兵自体も当時の大名が領土拡大のために熱望したという話も残っています。
(加藤清正の肥後半国か讃岐一国の話など)
結果的に秀吉の死亡により撤退したのであって、無謀な出兵であったというのは徳川御用学者の説にすぎません。
それにのっかった、みっともない例が芸州浅野家ですな。
唐入りのおりに、浅野長政が無謀な出兵であると秀吉を諌め勘気をうけ、それを家康の取り成しで許してもらったという話が江戸時代の浅野家が幕府にだした自家の略歴にのっています。
要は、うちの先祖は天下人にも恐れずに正しい意見をいう勇気のある男であり、それをとりなしてくれた家康は情けのある武将である(幕府にこびている)というわけです。
当然、そんな事実はないですが、こんな文章が残っていること自体、無謀な出兵であるという評価は御用学者のひねり出した豊臣否定の話であるという証拠になるかと思います。

秀吉の出自がうんねんの前にエリートでの武将が屈辱という点に関してです。
江戸時代の大名の石高からですが、

1位:加賀藩前田家 - 102万5千石  いわずと知れた利家の子孫 一応、菅家の子孫だと名乗っているが曽祖父は名前すら伝わっていない
2位:薩摩藩島津家 - 77万石    自称、源頼朝の後胤。少なくとも鎌倉以来の名家。一応、西軍
3位:仙台藩伊達家 - 62万石    藤原北家山蔭流を名乗る。少なくとも鎌倉以来の名家。
4位:尾張藩尾張家 - 63万石
5位:紀州藩紀州家 - 56万石
6位:熊本藩細川家 - 54万石   足利将軍家の一門として管領をつとめた。確実に源氏の名家。でも大名になったのは傍流。
7位:福岡藩黒田家 - 47万石    佐々木家の子孫を名乗る。黒田孝高子孫
8位:広島藩浅野家 - 43万石    ねねの義兄の家系
9位:長州藩毛利家 - 37万石     鎌倉以来の名門。大江氏の子孫
10位:佐賀藩鍋島家 - 36万石    主君の家(竜造寺)をのっとったとされ、化け猫で有名
11位:彦根藩井伊家 - 35万石
12位:水戸藩水戸家 - 35万石

   鳥取藩池田家 - 32万石    信長の乳兄弟。池田輝政子孫
   岡山藩池田家 - 31万石    信長の乳兄弟。池田輝政子孫
   米沢藩上杉家 - 30万石     上杉謙信子孫といいたいが、実際は吉良上野介子孫の家
   会津藩松平家 - 28万石
   徳島藩蜂須賀家家 - 25万石   明治天皇にさすが盗賊の子孫だといわれたとかw
   土佐藩山内家 - 20万石     つかれた。


.. 2007年03月31日 21:38   No.139002
++ ながと       
豊臣に反感をいだき、東軍につきその後、江戸時代大名として生き残っているはずなので、
つらつらと石高順位を書きましたが「そもそもエリート出の各武将達が屈辱を感じてもいた」というほどの名家がどこのことをさして言っているのかがわかりません。
(伊達?)

信長の乳兄弟の池田輝政子孫の鳥取、岡山藩の子孫は六代将軍の時代、「池田家の祖先はいかなるお方で」と質問されて、「今、新井白石に調べさせているから待ってくれ」と答えたそうです。
家康ももともと、藤原家康となのっていたのが源にかえたりして、エリートというような家で戦国時代をのりきって大名になっているのは島津、細川、伊達、毛利、佐竹(一応、上杉)くらいなものです。
ぶっちゃけ屈辱を感じるようなエリートの大名なんてほとんどいません。

さて秀吉は足軽農民の出だからについてですが、秀吉はのちに皇胤であると、自称しています。
これ、一応多少は信じられていたようです。
なんせ、農民から天下人にまで成り上がったのです。あれほどのことを成し遂げたのは皇胤であるからだというので皆なっとくしたというのを、なにがしかの本で読んだ記憶があります。
そこらはおいておいても、豊臣の氏は天下を統一した実績にたいして源平藤橘にならぶ、新しい氏として下肢させたものであり、なにより藤原北流家(九条、一条、近衛など)が交代でだしていた関白を、秀吉、秀次と二代つづけてだしたことにより、
藤原氏をしのぐ名家となっていました。実際、秀頼は最終的には右大臣にまでなっています。
足軽農民もなにも、前田家や池田家の例をみればわかるように、はっきりいってみんな氏素性は怪しさ爆発です。
むしろ、藤原から源に変えている徳川のほうが怪しいですよ。

.. 2007年03月31日 21:39   No.139003
++ ながと       

>一方家康は若年から戦い抜き、民を家臣を大事にし、関東を一大勢力にした実力もあるから武将たちからは尊敬されていた事実もある。

民を大事にしたという話は聞いたことがありません。
また、家臣はまったく大事にしてません。
関東250万石をもらった当初、誰も10万石をもらうものがいなかったくらいです。
(結局、秀吉に言われてしぶしぶ加増)
また、よくいう宝物比べで、「家臣が宝」だといった話がありますが、いうのはタダだという話が残っています。
そういえば、タダで見栄を張れて、さらにその話が家臣にまで伝わる。
主君をほめられた家臣は「あいつはケチだ」とけなせば自分の評価がさがるものだから、あいづちうって家康をほめる。
やたら寵愛していた井伊直正以外の家臣は、あまり大事にしていたとは言えないとおもいますが?

また、関東を一大勢力にした実力もなにも、秀吉にもらって唐いりしないで引きこもっていただけですから、それなりに発展しますよ。
ただし、小牧長久手の戦いで秀吉とひきわけて、そのため諸大名から尊敬はされていたのは認めます。


>そして三成は秀吉の家臣であり秘書。能力に関起人となった三成の勇気と行動力は確かにあったでしょう。

つかれたので割愛。

>ですが、何度も言う様に豊臣政権から人心は離れています。西軍の士気が低いのは所詮「勝ったら領地加増、でも秀頼では若年でその後がどうなるか不安」以外無いからです。
西軍主力を見れば分かります。宇喜多秀家・小西行長・石田三成・大谷吉継・毛利秀元・立花宗茂は秀吉に個人的に恩義がある人ばかり!それ以外は三成と関わりのある人ばかり。

ええ、「何度も言う様に豊臣政権から人心は離れて」というよりも、豊臣政権内で五大老筆頭の家康が強そうだからしたがっただけでは?
ま、秀頼が幼いので先行き不安に感じて家康にくっいたのを人心がはなれたというのであれば、みとめますが
秀吉の出自とか、唐入りが無謀だったからというのは、おかしな理由であるとは思います。

二時間もかけて書いていて疲れた。
もう二度こんなにかかね。

.. 2007年03月31日 21:40   No.139004
++ 多足       
わーお、ものすごく気合の入った論理的なレスで驚きなのです。ありがとうございますお疲れ様でした。
しかし困ったことに自分、三国志の武将に対しては結構自分なりの解釈、所見があるのですがこと日本の戦国武将という点では未だ名前数え上げても20人浮かばないんじゃないかというくらい疎いんですよ。なので気の利いたレスが返せないのがはがゆい限りです。つかじさんと長門さんのお話を見ていて思うところはありますが、この件に関するつかじさんのレスを待つ、ということでスミマセン。

.. 2007年04月02日 14:19   No.139005


▼返信フォームです▼
Name
Email
   
メッセージ
( タグの使用不可 )
Forecolor
アイコン   ICON list   Password 修正・削除に使用