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人間の笑いは古来からの一つのテーマになっているらしい。 なかでもフランスのベルグソンの笑いの研究は有名だそうです。 ベルグソンの研究のなかに、ものにけつまずいて倒れる人をみて吹き出したり大笑いしたりすることを分析している部分があります。そのなかでベルグソンはこう書いている。 「道を走っていた男が急に何らかの原因でよろめいて倒れた。するとそこに通りががりの人がそれを見て笑う。 もし仮に彼が急に出来心で大地に座る気になったのであると想像することができるとしたなら恐らく人は彼を笑わないであろう。笑いを催させるのは彼の態度の急激な変化ではなく変化の中にある不本意なものであり不器用さである。多分、意志かなんかが道にあったんだろう。歩き方を変えるか、その障害物を避けて通るべきだったのだ。けれども彼にはその俊敏さ器用さに欠けていたせいか、またはうっかりしていたのか、それとも体が強情を張ったせいか、もしくは惰力のせいで事情がほかのことを要求していたのに筋肉が依然として同じ運動をおこなうことを続けていたのである。 それゆえ彼は転んだのであり、そのことを通行人が笑うのである。」 このような笑いについてベルグソンは次のようにまとめている。 「人間のからだの態度、身振り、運動は単なる機械を思わせる程度に正比例して笑いを誘うものである。」 ベルグソンの理論についてリュシアン・ファーブルという人は次のようにいっている。 「ベルグソンの理論は結局次のように要約することができる。一方において生命の幻覚を与えるすべてのもの、他方において機械的な配列の幻覚を与えるすべてのものは喜劇的である。」 「無意識のうちに、その存在に気のつかなかったこうした混乱の一変種の要素をあげているにすぎない」 笑いは勝利の歌である。 それは笑い手の笑われる人に対する瞬間的な、だが突如として発見された優越感の表現である。 笑いには二つの種類があるといわれているらしい。それは互いに相隔たることの遠いものであるが、同時に地球の両極のように完全な連帯性をもっている。 第一の笑いは真の笑いである。それは健康な 強壮な 人の心を落ち着かせる笑い。 私は己がお前より(あるいは彼より あるいは全宇宙より あるいは私自身より)優越しがゆえに笑うのである。 こういうのはどちらかというと積極的な笑い。 第二の笑いは、悲しいといってもいいような笑い。 私はお前が私より劣っているが故に笑う。私は自分の優越から笑うのではなく、お前の劣等性を笑う。 これはどちらかと消極的な笑いであり軽蔑の笑いである。復讐の笑い、仕返しの笑い。 そしてこの二種類の笑いの狭間にはありとあらゆるニュアンスが存在する。 そしてこの両極端から同じ距離にある赤道上に、われわれ二つの笑いの結合によって作られた完全な笑いを見いだすのである。 べつに笑いを研究しているわけでも馬鹿にしているわけでもない。
(60.238.92.62).. 2006年02月23日 17:40 No.25001
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